Given one
おととい、約束通り再びベンガル人たちの家へ。
妊婦のマジニーナは、普段一人で何もせず家にいる。
時間を持て余す私と同じ身で嬉しく思う。
彼らの家は確実に寒いけど、確実に心が暖まるので早めに到着。
料理して準備するマジニーナとゆるくおしゃべり。
夕方にシャミンが帰ってきて、マハジュバ、サディアが加わる。
熱くてあまったるいバングラティーが大好きだ。
すっごくおなかがすいていたはずやのに、食べたら腹痛が起きだした。
ここのところおなかの調子も良かったのに、全くなぞの腹痛。
初めて、彼女の料理をプレート一皿分残してしまった。
でも、あまり悪い気がしなかった。
いや悪いとはもちろん思ったけど、「あなたに無理に食べてもらって体調悪くされると、何より私の気分が悪くなる。家にいるようにリラックスして、食べれないものを食べれないと言ってくれるほうがとても嬉しい」というマジニーナの言葉は本心の塊だとわかっていたから。
これなんだ。
本心がそのまま言葉であるアジア人たち。
私の安らぎは、本当にここにあると思っている。
みんな寝たり帰宅したあとも、私たちのおしゃべりは止まらなかった。
通算でその日は12時間近くマジニーナと話していたことになる。
私たちには、かなり多くの共通した価値観があることがわかった。
私には、「人は異文化に身を置くと自文化の色が濃くなる」という持論がある。
ほとんどの人が、異文化の中で自文化を見つける。
本来の自分の在り方や、自分自身を見つける。
ある意味、海外に自分探しに出かけるという方法論は理にかなっている。
海外滞在者ほど、目に見えない部分の日本人らしさが増す。
中国人は、強豪モンゴル帝国の猛威からの死守でカラーがはっきりした。
聖書の始まりでは、光が存在することで闇は闇と名付けられた。
苦いものの中では、甘みはより甘いもののようになる。
それは私の中でもよくよく証明されてきた。
私は日本にいると、非日本人の自分が濃くなる。
海外に出ると、日本人の自分が濃くなる。
そんなこともあって、日本と国外を行き来する機会を作ってきた。
どちらかに居続けると、私らしさがバランスを崩してしまうから。
今回は、少し日本に長く、どっぷりと居すぎているようだ。
マジニーナとの空間は、そんな私への休憩のような、必要な居場所。
たまりにたまった疲れや毒を吐き出す、デトックスのような時間。
そして、今回相手がアジア人だということもまた重要なこと。
私のアイデンティティである「アジア人であること」が肯定される空間。
Being a Japanese hadn't been able to cover the whole of myself for very long time.
日本人であり、日本人ではない私が見出したアイデンティティだった。
日本は、アジアでありながら、もはやアジアではない点が多い。
だから、ここにいながら「アジア人であること」は常に満たせない。
She is the help to express the way I am this time.
彼女は私を日本人扱いしない。
彼女曰く、私があまり日本人らしくないと思っていたからだそうだ。
私の深い部分に存在する非日本人を話す中で彼女は納得を得ていた。
私は日本にいる間は、日本人でいるようにしている。
だから世界中にあほほど友達がいても、日本在住の友人は少ない。
でも今回は、バランスを崩してたまっていた疲れがピークだった。
マジニーナの前で、もう半分の非日本人の自分を解放できた。
互いにとって、それぞれの動機で価値のある時間になったと思う。
そんな心地良い場所が、前もってアポをとらなくても、その場で気軽に行けることがありがたい。